邪馬台国の場所は九州説!? 吉野ヶ里遺跡の「謎のエリア」で邪馬台国論争は終わった?

邪馬台国の場所は九州説!? 吉野ヶ里遺跡の「謎のエリア」で邪馬台国論争は終わった?コラム
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先日、弥生時代の大規模な集落跡で知られる佐賀県の吉野ヶ里遺跡で“謎のエリア”と呼ばれる場所から新たな墓が発見されました。

新しく見つかった墓は、吉野ヶ里遺跡で最も高い場所に単独で見つかり、身分の高い人物の墓に塗られていることが多い「赤色顔料」が確認されたことで、「卑弥呼の墓か?」「邪馬台国は九州説が有力か?」と言われています。

邪馬台国の場所は2つの有力説があります。

  1. 九州説
  2. 畿内説

「邪馬台国は九州にあった!」、「いやいや、邪馬台国は奈良県にあった!」という風に、邪馬台国論争があるわけです。

しかし、「古事記」や「日本書紀」、「魏志倭人伝」などの史書を正しく読み解くと、邪馬台国は九州説が有力であることが分かります。

邪馬台国(やまたいこく/やまとのくに)は、2世紀 – 3世紀に日本列島に存在したとされる国(くに)のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合(邪馬台国連合)の都があったとされている。古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読したことから「やまたいこく」の読み方が広まった。日本の文献には邪馬台国や卑弥呼の存在は一切記載は無く日本では存在は立証されていない。所在地について、今も議論が続いている。
引用:邪馬台国(Wikipedia)

邪馬台国があった場所は九州説が有力

邪馬台国の場所は九州説が有力だと私は思っています。

その理由は、「魏志倭人伝」にそう書かれている、そして「古事記」や「日本書紀」と照らし合わせると、邪馬台国の場所が九州だったことを示しているからです。

これに関しては次の動画が分かりやすいです。

約1時間の動画ですが、邪馬台国の場所に関して非常に分かりやすく解説されています。

歴史好きな方、そして九州(特に福岡県、長崎県、佐賀県、大分県、熊本県)に土地勘のある方は、とても興味深く楽しめる内容です。お時間があるときに是非ご覧になってみてください。

邪馬台国の場所は九州説が有力だと思う理由は、帯方郡から邪馬台国までの道程と距離が魏志倭人伝(中国の歴史書『三国志』中の「魏書」)に書かれているからです。

帯方郡から邪馬台国までの道程と距離

魏志倭人伝によると、朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国までの道程と距離が記されています。

対馬市・壱岐市・松浦郡

釜山から唐津

まず朝鮮半島の帯方郡(現在の韓国ソウルあたり)から狗邪韓国(くやかんこく)まで7,000里。

狗邪韓国(現在の釜山あたり)から対馬国(長崎県対馬市)、一支国(長崎県壱岐市)、末盧国(佐賀県・長崎県にあった松浦群)のルートで九州に上陸しています。

対馬国はそのまま長崎県対馬市であり、一支國の「一支」と「壱岐」は漢字の雰囲気が似ていますよね。そして壱岐市から九州に上陸するには末盧(まつら)国、つまり、以前の松浦(まつうら)郡、現在の東松浦半島、佐賀県唐津市あたりと考えるのが自然です。

糸島市・福岡市・宇美町

唐津市から糸島市。糸島市から福岡市。

末盧国(佐賀県唐津市あたり)から伊都(いと)国まで500里。伊都国は現在の福岡県糸島市で、伊都国から東南に100里ほど行くと、奴国(なこく)。奴国は現在の福岡市周辺です。

後漢の歴史書「後漢書」には、光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたと書かれており、「漢委奴国王」と彫られた金印が福岡市東区志賀島で発見されている事や、福岡県春日市にある須玖岡本遺跡で奴国王の墓が発見されていることから考古学上、奴国は福岡市周辺で間違いありません。

ちなみに福岡市の「那の津」や「那の川」、「那珂川市」など、「那」がつく地名は、奴国の名残と言われています。

そして奴国から東に行くと、不弥(ふみ)国です。不弥国は、現在の福岡県糟屋郡宇美(うみ)町です。

ここまでは考古学的、かつ地理的に考えても納得できるのですが、ここから先の道程を地名で判断することが難しいため、九州説と畿内説に分かれてしまうのです。

邪馬台国の北の境界

魏志倭人伝には邪馬台国の境界について次のように書かれており、邪馬台国の北方には次のような国がありますよということです。

つぎに斯馬国(しまこく)がある。
つぎに已百支国(いわきこく)がある。
つぎに伊邪国(いやこく)がある。
つぎに都支国(ときこく)がある。
つぎに弥奴国(みなこく)がある。
つぎに好古都国(をかだこく)がある。
つぎに不呼国(ふここく)がある。
つぎに姐奴国(さなこく)がある。
つぎに対蘇国(とすこく)がある。
つぎに蘇奴国(さがなこく)がある。
つぎに呼邑国(おぎこく)がある。
つぎに華奴蘇奴国(かなさきなこく)がある。
つぎに鬼国(きこく)がある。
つぎに為吾国(いごこく)がある。
つぎに鬼奴国(きなこく)がある。
つぎに邪馬国(やまこく)がある。
つぎに躬臣国(くじこく)がある。
つぎに巴利国(はりこく)がある。
つぎに支惟国(きくこく)がある。
つぎに烏奴国(あなこく)がある。
つぎに奴国(なこく)がある。

斯馬国(しまこく)は福岡県志摩郡、姐奴国(さなこく)は佐賀県佐賀市、対蘇国(とすこく)は佐賀県鳥栖市と考えられており、邪馬台国はそれより南に位置していたと考えられます。

つまり、邪馬台国は現在の佐賀県鳥栖市より南にあった可能性が高いわけです。

また、対蘇国(とすこく)、蘇奴国(さがなこく)、華奴蘇奴国(かなさきなこく)には、阿蘇山の「蘇」の漢字が使われていることも偶然ではないでしょうね。

邪馬台国の南の境界

邪馬台国は現在の佐賀県鳥栖市より南にあった可能性が高いということで、北の境界は大体わかりました。

では、どこより北にあったのかという南の境界はどこかというと、現在の熊本県です。

その(邪馬台国)南に狗奴国(くなこく)がある。男子を王としている。 その官に狗古智卑狗(くこちひこ)がある。女王に属していない。

邪馬台国の南には狗奴国(くなこく)という国があり、男子が王で女王に属していないということは、邪馬台国と狗奴国の境目が南の境界ということになりますね。

そして、狗古智卑狗(くこちひこ)とは誰かというと、菊池彦が有力です。狗奴国(くなこく)の「くな」と熊本の「くま」が似ていたり、熊本県菊池郡は久々知(くくち)と呼ばれていたため、「狗古智卑狗(くこちひこ)=菊池彦(きくちひこ)」でも不思議ではありません。

邪馬台国は佐賀県鳥栖市より南、熊本県より北に位置していた?

邪馬台国の位置はこの辺?

邪馬台国は佐賀県鳥栖市より南、熊本県より北に位置していたとすると、みやま市を中心に柳川市、大川市、筑後市、八女市、広川町あたりだったのではないかと推測できます。

もちろん、今回新たな墓が発見された吉野ヶ里遺跡、久留米市や大牟田市まで邪馬台国の範囲内であってもおかしくありません。

帯方郡から邪馬台国までの距離

最後に、帯方郡から邪馬台国までの距離についてです。

魏志倭人伝には帯方郡から邪馬台国までの距離が12,000里と書かれています。

里(り)は、尺貫法における長さの単位である。現在の中国では500 m、日本では約3927.2727 m = 約3.9 km、朝鮮では約400 mに相当する。
引用:里(Wikipedia)

Wikipediaによると、1里の長さは上記のようになっていますが、魏志倭人伝に書かれている1里の長さはこれに当て嵌まりません。

邪馬台国が存在したのは2世紀~3世紀ですから、GoogleマップやGPSなどは当然ありませんし、正確な地図さえ無かった時代なので、1里の長さは感覚的なものだったと推測されます。

国の中心地から国の中心地までの距離なのか、国の端から国の端までの距離なのかも分かりませんから、あくまで感覚的なものなのです。

では、感覚的に帯方郡から邪馬台国までの距離(12,000里)がどうだったかという話です。

まず、帯方郡(韓国のソウルあたり)から狗邪韓国(韓国の釜山あたり)まで7,000里。

狗邪韓国(韓国の釜山あたり)から対馬国(長崎県対馬市)まで1,000里。

対馬国(長崎県対馬市)から一支国(長崎県壱岐市)まで1,000里。

一支国(長崎県壱岐市)から末盧国(佐賀県唐津市あたり)まで1,000里。

末盧国(佐賀県唐津市あたり)から伊都国(福岡県糸島市)まで500里。

伊都国(福岡県糸島市)から奴国(福岡市)まで100里。

このように考えると、帯方郡(韓国のソウルあたり)から奴国(福岡市)まで、10,600里の道程だったことが分かり、残りは1,400里、つまり福岡市から1,400里圏内に邪馬台国があったということなのです。

そして、福岡市から1,400里圏内というのは、これも感覚的なものになりますが、次のようになるでしょう。

福岡市から邪馬台国

一支国(長崎県壱岐市)から末盧国(佐賀県唐津市あたり)まで1,000里、末盧国(佐賀県唐津市あたり)から伊都国(福岡県糸島市)まで500里なので、1,400里は大体これぐらいですね。

この赤丸線上に邪馬台国があった可能性が高く、少なくともこの時点で、邪馬台国は奈良県にあったとする畿内説の可能性は限りなく低いといえるでしょう。

まとめ

以上、邪馬台国の場所は九州説が有力という話でした。

今回、吉野ヶ里遺跡で“謎のエリア”と呼ばれる場所から新たな墓が発見されたことで、「邪馬台国」や「卑弥呼」と書かれた金印のような、九州説を決定付ける証拠が出土すると面白いですね。

ただ、邪馬台国の位置を考察するのはロマンがあって非常に楽しいです。

2~3世紀の時代背景を想像しながら、発音や訛りなどで正しい地名が伝わらなかったり、舗装されていない道路、天候に左右される旅路、7万戸の大規模な集落に適した土地、その人口を支えられる資源(山・海・川)などを考えると楽しいですね。

正確に判明していない地名も多くあるので、九州に土地勘のある方は邪馬台国の場所を考察してみてはいかがでしょうか?

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